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2016東京国際映画祭作品感想 「コンペ」(北欧・東欧編−1)

フィンランド映画 ルーマニア映画 映画祭

いよいよ、北欧・東欧編。できればまとめて載せたかったのですが、長くなりそうなので、二回に分けてお届けします。

個人的に、北欧・東欧系の映画の人間模様の描き方は興味深いと思っています。ルーマニアのアドリン・シタル監督、女性監督のアマンダ・ケンネル監督にも、もちろん注目しています!

 

  

フィクサー』。心温まるルーマニア映画。

人間は誰しも、色々な立場を持っているものです。例えば、私自身を言い表すなら、日本人であり、社会人であり、娘であり、映画ファンであり、女であり…。立場によって自分の性格が変わったりすることもあり、不思議だなぁと思うことがあります。

自分の行動や発言は自分にとっては自然な流れなので、あまり変だとは思わないのですが、これが他人だとめちゃくちゃ不思議です。職場では低姿勢な新入社員が弟へ電話する時は聞いたことないような口調でビックリだったり、日本語とそれ以外の言語では人格が違う人を見た時なんかも…人は、場面によって自分を使い分けているものかもしれません。

私はできるだけ人によって自分の態度を変えない人間になりたいと思っているのですが、そのためには自分を客観視できる力を持たねばなりません。同時に、子ども(娘)である立場を職場でも活かしたり、女目線での思考を映画の解釈に活かせたらいいなぁ、と思ったりしています。

主人公の異なるふたつの立場を交互に登場させ、他者の気持ちに寄り添えた経験を描いた映画『フィクサー』は、心が温まる佳作でした。

主人公のひとつめの立場は「ジャーナリスト」。想像を超えるような酷いインタビューを強要させられます。やらなければ先に進めない…立場は違えど、社会人にはこういう苦境に立たされることが多々あります。そこで、先に進めるか、進まない道を選ぶか。苦しくとも、必要な選択です。

もうひとつの立場は「父親」。 血の繋がらない子どもを可愛がって育てていますが、ひとりよがりの可愛がり方で、子どもから距離を取られてしまいます。

子どもとの距離を縮めるために、何が大切だったのでしょう。それに気づかされるのと同時に、主人公の立場は「父親」だけでなく他にもあり、彼がそこから学んでいるということに、胸が熱くなりました。

子どもは「言葉の暴力」によって深く傷つきますが、傷つきながらも大人の生き方や示す方向はちゃんと見ています。いっときは怖かったり嫌いになったりしたことでしょう…。でも、ラストで父が子をしっかりと抱きしめるシーンは、ぐっときました。不恰好ながらもオトナとコドモが寄り添いあいながら奏でるエンディングの音楽が最高です。

 


ルーマニアの現在〈いま〉を描く 『フィクサー』記者会見 “The Fixer”PC〈Competition〉

 

 

サーミ・ブラッド』 。知られざる世界…フィンランド黒歴史

今や少数民族となってしまったサーミ族の物語。サーミ族の血を引く監督が、記録映画的な意味合いも含めて作り上げた、渾身の初監督作品です。フィンランドが「黒歴史」というくらいなのですから、このテーマを、しかも初監督作で選ぶというのは相当な勇気だったのではないでしょうか。

私は以前、『ツィリ』(アモス・ギタイ監督)という映画を観たことがあるのですが、正直、全然わからない少数民族の作品でした。ですが、不思議と心に残る作品で、静かにフェードアウトしていく民族や言語を記録として残しておくことの意味を考えさせられました。この経験があるからでしょう、『サーミ・ブラッド』には特別な「大切さ」を感じます。

現代に生きる者として一番胸が痛かったのは、文化人類学を専攻している若者が、好奇心からサーミ族の少女に民謡を歌わせるシーンでした。出会ったことのない民族の女の子に会えたことは、彼らにとって心躍るような出来事でしょう。私もまた、知らない世界への興味や憧れがあって、未知なる出会いにワクワクしてしまうタイプです。

数年前になりますが、私はチベットの文化に興味を持ったことがあります。日本でチベット展が開催された時は、チベットに触れる機会がある!と喜んでいたのですが、現地の人々が自分たちの文化を世界に広めるために喜んで提供したものではないのだ、ということを知り、目の前が真っ暗になったことがありました。

幾らかのお金と彼らの文化が引き換えにされたのだろうな…とは予想しますが、中には手放したくなかったものもあったことでしょう。そんな背景を理解せずに、ただ物珍しさだけに浮き足立ってしまった自分を恥ずかしく思いました。なので、本作に登場する文化人類学を専攻する学生たちの好奇心に満ちた(しかも正しさや潔癖さに満ちた)視線が、やたらと胸に突き刺さりました。

世の中に出回っていないものごとを広めるのは、悪いことではないし、学術的な立場であればなおさらで、悪いことをしている意識はないと思います。でも、それが少数民族を傷つけてきたのではないだろうか?と、思いました。

映画を観終わってから私は、少数言語を研究している知人に、このことを話してみました。すると、やはり過去には無理やり少数民族の文化を奪ったり、嫌がっていることを無理やりさせて得た情報もあったのだ、とのこと。しかし、それも黒歴史。今は得たい情報を得るために、その土地に長く滞在し、人々の生活に溶け込み、人と人の交流を深め、信頼関係を築いてから、失礼のない範囲で教えてもらうのが主流になっているとのことで、それを聞いてホッと胸をなでおろしました。

もしかしたらサーミ族はフィンランドだけでなく、他の国の研究者に傷つけられた過去もあったのかもしれません。映画の伝えたかったテーマとは別の視点で書いてしまいましたが、私はこのことを、特に考えさせられました。

『サーミ・ブラッド』は、今だからこそ国際映画祭で「サーミ族を全世界に知らしめたい」という意味合いがあるのかもしれません。世界の少数民族が胸をはって世に姿を現そうとしているタイミングを、私たちは見逃すべきではありません。

 


『サーミ・ブラッド』 記者会見 “Sami Blood” Press Conference

★『サーミ・ブラッド』は2017年秋頃の公開が決まっています★