2016東京国際映画祭作品感想 「コンペ」(北欧・東欧編−2)

北欧・東欧編第2弾です。

様々な国の映画が観たいと思っている私ですが、クロアチア映画を観るのは初めて。ハナ・ユシッチ監督はどんな風景を見せてくれるのでしょう。ロシア映画も観たことがあるような、ないような…アンナ・マティソン監督のインターナショナル・プレミアはタイトルを聞いただけで、すぐ観たいと思った作品です。

 

 

私に構わないで 』 クロアチアにもある、こんな家族のカタチ

人の集まりには気づかいが必要です。

よかれと思って「気を使わないで」と声をかけたりかけられたりすることがありますが、それは異様な緊張感を感じている人に対する言葉であり、複数の人と一緒に何かをする場合、うまくやっていこう、ぶつからないようにしよう、と全員が思っていないと、実際はなかなか上手くいかないことが多いのです。

でも、家族にはそういう気づかいは薄れます。わかってるだろうという思い込みとか甘えのため。それが許される当たり前が居心地の良さであったり、温かみだったりもするのだけど、真逆になる場合もあります。それがこの映画。

ギョッとしました。

困った人か嫌な人しかいない家族で、自分一人が我慢を強いられる。これは逃げ出すしかありません。

近年、女性が意思を持って自分の人生を摑み取ろうとする映画が増えています。男性社会で意思すら持っていない女の子もいたりして、女性の人権を考える機会が増えてきました。そういう背景もあり、きっとこの作品の主人公も自分の道を自分で掴みとるんだろうなと思っていたら…違いました。ネタバレしちゃいますが、逃げることを諦めた映画でした。

クロアチアの雰囲気や家族の状況、主人公のやるせなさもわかりましたが、どうしても腑に落ちません。一緒に映画を観た知人に解説してもらい、ラストは明るい方向に向かっているということまで教えてもらったのですが…残念ながら私には苦手なタイプの映画でした。

ただ、私は苦手ですがこれを表現したかった監督の意図はあると思います。他人と違って家族には遠慮がないことや、それでも家族だと思えることや、それがリアルなのだということ。世の中には自分の人生を切り開ける人間ばかりではなく、選択にも多様性はあるのだということ。現状に不満を持ちながらもその状況を受け入れ、生きている人が実は多いのではないかということ。ストーリーだけでなく、女優(演技)や風景や色合いや光の加減など全ての表現方法を駆使して映画を作り上げていることなどを考えさせられた作品でもありました。

 


『私に構わないで』記者会見“Quit Staring at My Plate”PC〈Competition〉

 

 

天才バレエダンサーの皮肉な運命』 ロシアの華やかな世界とその裏側

映画をどうこういう前に、ロシア人が六本木会場を半数以上埋め尽くすことに驚きを隠せません。

私は海外の映画祭に行ったことがないので、外国の映画祭の雰囲気を味わうことができたような気分に浸ったり、あと、ロシア人のリアクションが大きかったので(確かにコメディではあるのだけど、爆笑が続く続く)、それにつられて笑ってしまったり。TIFFには10年通っていますが、こういうのは初めての経験でビックリしました。

作品も映画祭向きという感じで、ロシア芸術を魅せてくれる部分あり、芸術家の高飛車な性格やそれによる苦悩あり、見どころがたくさんある上、コメディ仕立てという…私はあまりロシア映画を観たことがないのですが、それにしてもロシアってこんなに柔軟な面白さを兼ね備えてたっけ?と、思うような作品でした。

トーリーは「のだめカンタービレ」っぽい感じです。天才は自分のことを天才って信じてないとダメなんだけど、自分はともかく人へのダメ出しが多かったり口が悪くて、人望がないバレエダンサーの物語。

そういう人だとは百も承知なんだけど、ついていくタイプの女性もいたりして…特殊な世界の話ではあるのだけど、才能に惚れ抜く気持ちにあぁわかる!と思ったりしていました。命がけでプライドを守るとことかもね。

感想を書こうとするとどうしてもミーハーな感じになってしまうのですが、アート系の部分が、実はものすごくチカラが入っていて、後半のモダンダンスとかすごいですよ。もしかしたらロシアにはこういう映画がたくさんあるのかもしれませんが、私的にはこの映画、記録映画としての価値もあるんじゃないかと思うくらいです。

しかも、主演男優は「ダンサー」ではないのですよね。ものすごい努力をされたと思うのですが…俳優に演技以上の、バレエを求めているところや、それができてしまっているところが本当にすごくて、これは本当に、もう一回観たい作品です。

 


『天才バレエダンサーの皮肉な運命』記者会見  “After You're Gone”PC〈Competition〉

 

 

2016東京国際映画祭作品感想 「コンペ」(北欧・東欧編−1)

いよいよ、北欧・東欧編。できればまとめて載せたかったのですが、長くなりそうなので、二回に分けてお届けします。

個人的に、北欧・東欧系の映画の人間模様の描き方は興味深いと思っています。ルーマニアのアドリン・シタル監督、女性監督のアマンダ・ケンネル監督にも、もちろん注目しています!

 

  

フィクサー』。心温まるルーマニア映画。

人間は誰しも、色々な立場を持っているものです。例えば、私自身を言い表すなら、日本人であり、社会人であり、娘であり、映画ファンであり、女であり…。立場によって自分の性格が変わったりすることもあり、不思議だなぁと思うことがあります。

自分の行動や発言は自分にとっては自然な流れなので、あまり変だとは思わないのですが、これが他人だとめちゃくちゃ不思議です。職場では低姿勢な新入社員が弟へ電話する時は聞いたことないような口調でビックリだったり、日本語とそれ以外の言語では人格が違う人を見た時なんかも…人は、場面によって自分を使い分けているものかもしれません。

私はできるだけ人によって自分の態度を変えない人間になりたいと思っているのですが、そのためには自分を客観視できる力を持たねばなりません。同時に、子ども(娘)である立場を職場でも活かしたり、女目線での思考を映画の解釈に活かせたらいいなぁ、と思ったりしています。

主人公の異なるふたつの立場を交互に登場させ、他者の気持ちに寄り添えた経験を描いた映画『フィクサー』は、心が温まる佳作でした。

主人公のひとつめの立場は「ジャーナリスト」。想像を超えるような酷いインタビューを強要させられます。やらなければ先に進めない…立場は違えど、社会人にはこういう苦境に立たされることが多々あります。そこで、先に進めるか、進まない道を選ぶか。苦しくとも、必要な選択です。

もうひとつの立場は「父親」。 血の繋がらない子どもを可愛がって育てていますが、ひとりよがりの可愛がり方で、子どもから距離を取られてしまいます。

子どもとの距離を縮めるために、何が大切だったのでしょう。それに気づかされるのと同時に、主人公の立場は「父親」だけでなく他にもあり、彼がそこから学んでいるということに、胸が熱くなりました。

子どもは「言葉の暴力」によって深く傷つきますが、傷つきながらも大人の生き方や示す方向はちゃんと見ています。いっときは怖かったり嫌いになったりしたことでしょう…。でも、ラストで父が子をしっかりと抱きしめるシーンは、ぐっときました。不恰好ながらもオトナとコドモが寄り添いあいながら奏でるエンディングの音楽が最高です。

 


ルーマニアの現在〈いま〉を描く 『フィクサー』記者会見 “The Fixer”PC〈Competition〉

 

 

サーミ・ブラッド』 。知られざる世界…フィンランド黒歴史

今や少数民族となってしまったサーミ族の物語。サーミ族の血を引く監督が、記録映画的な意味合いも含めて作り上げた、渾身の初監督作品です。フィンランドが「黒歴史」というくらいなのですから、このテーマを、しかも初監督作で選ぶというのは相当な勇気だったのではないでしょうか。

私は以前、『ツィリ』(アモス・ギタイ監督)という映画を観たことがあるのですが、正直、全然わからない少数民族の作品でした。ですが、不思議と心に残る作品で、静かにフェードアウトしていく民族や言語を記録として残しておくことの意味を考えさせられました。この経験があるからでしょう、『サーミ・ブラッド』には特別な「大切さ」を感じます。

現代に生きる者として一番胸が痛かったのは、文化人類学を専攻している若者が、好奇心からサーミ族の少女に民謡を歌わせるシーンでした。出会ったことのない民族の女の子に会えたことは、彼らにとって心躍るような出来事でしょう。私もまた、知らない世界への興味や憧れがあって、未知なる出会いにワクワクしてしまうタイプです。

数年前になりますが、私はチベットの文化に興味を持ったことがあります。日本でチベット展が開催された時は、チベットに触れる機会がある!と喜んでいたのですが、現地の人々が自分たちの文化を世界に広めるために喜んで提供したものではないのだ、ということを知り、目の前が真っ暗になったことがありました。

幾らかのお金と彼らの文化が引き換えにされたのだろうな…とは予想しますが、中には手放したくなかったものもあったことでしょう。そんな背景を理解せずに、ただ物珍しさだけに浮き足立ってしまった自分を恥ずかしく思いました。なので、本作に登場する文化人類学を専攻する学生たちの好奇心に満ちた(しかも正しさや潔癖さに満ちた)視線が、やたらと胸に突き刺さりました。

世の中に出回っていないものごとを広めるのは、悪いことではないし、学術的な立場であればなおさらで、悪いことをしている意識はないと思います。でも、それが少数民族を傷つけてきたのではないだろうか?と、思いました。

映画を観終わってから私は、少数言語を研究している知人に、このことを話してみました。すると、やはり過去には無理やり少数民族の文化を奪ったり、嫌がっていることを無理やりさせて得た情報もあったのだ、とのこと。しかし、それも黒歴史。今は得たい情報を得るために、その土地に長く滞在し、人々の生活に溶け込み、人と人の交流を深め、信頼関係を築いてから、失礼のない範囲で教えてもらうのが主流になっているとのことで、それを聞いてホッと胸をなでおろしました。

もしかしたらサーミ族はフィンランドだけでなく、他の国の研究者に傷つけられた過去もあったのかもしれません。映画の伝えたかったテーマとは別の視点で書いてしまいましたが、私はこのことを、特に考えさせられました。

『サーミ・ブラッド』は、今だからこそ国際映画祭で「サーミ族を全世界に知らしめたい」という意味合いがあるのかもしれません。世界の少数民族が胸をはって世に姿を現そうとしているタイミングを、私たちは見逃すべきではありません。

 


『サーミ・ブラッド』 記者会見 “Sami Blood” Press Conference

★『サーミ・ブラッド』は2017年秋頃の公開が決まっています★